篠原孝

【篠原孝】反グローバリズムのはしりだった海洋法条約 -里地・里山・里海の日本型思想が持続社会を造る- 16.07.26

参院選が終わったと思ったら、すぐ東京都知事選が始まり、秋には民進党の代表選、臨時国会が控えている。暑い夏が続き政治の世界も騒々しい。しかし、ちょっと違って、海の話題に触れてみたい。

<南シナ海を巡る海洋法裁判所の仲裁判決>

 南シナ海が中国の海洋進出で揺れている。7月12日の海洋法裁判所の仲裁では、中国が南シナ海に設定した九段線など中国の主張はほとんど認められなかった。中国は無視すると宣言し、ASEAN諸国との衝突の火種になり、米中激突の危険さえはらんでいる大問題である。海洋法条約第8部(第121条)は、排他的経済水域(EEZ)や大陸棚を持つ島か、人間の居住又は独自の経済的生活を維持できない岩かについて規定しているが、初めて客観的基準が示された。
 この岩の定義は、日本の沖ノ鳥島にも及んでくる。昔とった杵柄<1978年ワシントン大学法学修士・海洋法>で気になるところだが、もっと真に目を向けて考えなければならないのは、沿岸の海のあり方である。

<今や昔の遠洋漁業大国・日本>

 かつて日本は世界の海に出かけ、魚を獲りまくった。しかし、世界が魚を獲りまくる外国漁船に疑問を感じ始め、海の秩序について議論が始まった。そして1982年第3次国連海洋法会議で、ようやく採択された。
 日本も批准して海洋法条約が発効したのは今から20年前の1996年7月20日のことである。そして、この日が「海の日」の祝日と定められた。私は水産庁の企画課長(海洋法対策室長)としてこの条約の批准、そして排他的経済水域の設定、海洋生物資源の保護及び管理に関する法律をとり仕切った。

<海洋自由から海は「人類共有の財産」>

 海洋自由については、世界は貿易も人の交流も通信も何もかも「自由」を前面に出すルールが定着しつつある中、この時をもって閉鎖の時代に突入したのである。特に漁業の世界では、沿岸国の権利が絶対視され、200海里内の漁業の権利は一般的に沿岸国のものとされ、自由に漁業活動できるのは公海だけとなった。ところが、公海の漁業もサケ・マスは母川国の権利が重視され、マグロや鯨は資源保護の観点から制約がかかり、環境へのダメージが大きい流し網漁業等は禁止されることになった。つまり、航行の自由を除けば、制限される方向に舵取りしたのである。しかし、大半の人はこの変化には気付いていなかっただろう。
 海は誰のものかという議論は、結局資源は誰のものか、世界の国々を律する共通のルールという根源的な問題に行き着く。結論は、全てが人類共有の財産(Common Heritage of Mankind)であり、今や人間だけのものでなく、地球の全生物のものである、野放図に使わせないために沿岸国の管轄権を与えるというものである。つまり、各国の責任に任せられたのである。

<沿岸国に与えられた管轄権>

 漁業資源にしろ鉱物資源にしろ、開発能力がある先進国が勝手に使ってはならず、一義的な権利は沿岸国、大陸棚国にあることとされた。つまり、地元の皆さんに管理され、利用されるのが一番理に適っているということが決められたのである。
 しかし、この理屈は何も目新しいことではない。昔から利用している地元が有効活用できると改めてお墨付きを与えられただけのことである。つまり、自由競争に任せていたら、資源は枯渇し、環境が悪化する、それよりもずっと付き合ってきたし、今後もずっと付き合っていく沿岸国の住民の管理に任せるのがベストだ、という極めて真っ当な結論となったのである。
 これにより、世界の遠洋漁業は一変した。日本でも日魯漁業、大洋漁業、日本水産等の日本三大水産会社はこぞって世界の海から撤退を余儀なくされた。

<持続的漁業の好例は共同漁業権漁業>

 こうした中、世界の海洋生物資源管理学者から絶賛されたのが、日本の沿岸の漁協中心の漁業権漁業であり、日本漁民の自然との付き合い方である。世界の多くの国々で資源を枯渇させているのに、日本沿岸漁民は自らを律し、産卵期には漁をせず、禁漁期を設け、ずっと持続的漁業をしてきたのである。私が1976~8の2年間留学したワシントン大海洋総合研究所の授業の中では、今は当たり前の持続性(sustainability)が頻繁に登場し、資源管理の要諦は最大持続生産量(MSY:maximum sustainable yield)だと教えられた。
 私がぼやっと考えてきた疑問に答える理論であり、まさに「目から鱗」であった。以後の私の『農的小日本主義の勧め』という著作や、環境保全型農業、低成長型社会への転換といった考え方につながっている。アンチグローバリズムであり、成長至上主義への決別である。

<日本には当てはまらない「コモンズの悲劇」>

 漁業の世界では「コモンズの悲劇」が起っていた。生産能力が拡大し、こぞって魚を獲る先に待っていたのは乱獲であり、資源の枯渇である。皆の共通の資源、例えば空気を平気で汚し続けるような環境の悪化も、コモンズの悲劇の一種である。ところが、日本の自然と素直に向き合う姿勢は、漁業の世界でも「総有」(Commons)を生み出し、皆でルールを守って漁業を続けてきたのである。
 これも当たり前といえば当たり前である。外部の者は獲れるうちに獲って儲けようとするから、3年先や4年先のことなど考えずに乱獲する。枯渇したら外の漁場を探せばよいからだ。それに対し、沿岸漁民は、自分の地元の海にしか頼れないから丁寧に扱う。

<自然はすべて皆のもの、共有の財産>

 このことは、何も漁業に限ったことではない。農業にも林業にもそのまま充てはまる。日本では農地や土地の所有国が絶対視されているが、これもまた国のものであり、皆のものなのだ。西欧社会ではこれが徹底しており、勝手な転用など許されない。だから、パリ郊外の農地は昔のまま維持され、200~300年前の風景がそのまま残されている。

<ずれた宮城県知事>

 ところが、日本はこの原理・原則がまったく理解されず、逆の方向にばかり向かっている希有な国だ。
 宮城県知事が、こうした漁協がまとめてきた漁業権の真髄を踏みにじって企業に明け渡そうとしている。せっかく日本の周りの海から外国漁船を追い払ったというのに、地元とかけ離れた企業に漁業をやらせたら元の木阿弥である。企業漁業は世界中でやってきた一時的な利益に走る非持続的漁業を今度は自国で繰り返すことになるだけだからだ。

<流れ者が農地を荒らす>

 そして、農業の世界にも地の者でない企業の農業参入が画策されている。九州の農民作家、山下惣一の『タマネギ畑で涙して-タイ農村ふれあい紀行』(1990)を読んで、私も涙した。東南アジアに進出した日本の企業が、連作障害を知らない現地の農民に日本に輸出するタマネギを作らせ、数年経って森林は消え、農地が荒れて使いものにならなくなると、他の農村へ移っていくことが刻明に書かれている。残された農民が生きるすべを失う哀れな姿が目に浮かぶ。今、需要があるから作り儲ける。あとはどうなっても知らん顔。こんなことが許されていいはずがない。
 タイの農村で起きていることが、日本の農山漁村の行末と重なってくる。つまり、山下の6年後の著作のとおり『タイの田舎から日本が見える』(1996)のだ。日本の知恵で守ってきた持続的漁業や持続的農業が、時代遅れのグローバリズムや競争原理で壊されようとしているのである。

<イギリスのEUからの離脱も世界の潮流の一つ>

 イギリスのEUからの離脱は、専ら移民問題を中心に論じられている。しかし、イギリスの沿岸漁民は大喜びしているに違いない。EUの共通のEEZの中で、乱獲を繰り返す他国の漁船に歯ぎしりしていたからである。それよりも前にノルウェーは、漁業の共通水域を嫌ってEUには加盟していない。自分たちのことは自分たちで決めていく、独自性を保つ姿勢を貫いている。行きすぎた自由主義、グローバリズムの問題に早く気付いて方向転換したのは、実は漁業の世界だ。
 ノルウェーの見本があればこそ、イギリスもEUを離脱したのであり、ノルウェーは先輩国として、この動きを歓迎している。

<里地・里山・里海vs.経済至上主義>

 沿岸海域も農地も森林もそこに住んで生活している人以外に手を出させてはならない。そして今、日本では里地・里山・里海なる言葉が生まれている。
 この経緯をみれば、いかに宮城県知事や財界農政が目先の利益にだけに走り、長期的視点に欠けているかわかろうというものだ。


出典:http://www.shinohara21.com/blog/archives/2016/07/_160726.html


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